人気ブログランキング |

前回は、ユーグ・カペーの血を引く、カペー家がついに
王の座を勝ち取り、カペー朝が誕生しましたね。
しかし、カペー家の血統を守ることはできても、周りの諸侯たちを
まとめていくには、前途多難でした。
さあ、カペー朝、今後どうなっていくのでしょうか?

アンリ1世が王として君臨している際は、
つまらない身内同士の争いで、信用を失い、
結局、有力諸侯たちが力をつけてしまう
結果を招いてしまいました。

アンリ1世のあと、息子のフィリップ1世が王となります。
その時、フィリップ1世は7歳。実際は、母が摂政として
実権を握っていました。フランス史上では、初の女性摂政
といわれています。

この頃、諸侯たちの中で大きな変化がありました。
ノルマンディーです。
ここで、ノルマンディーの話をしましょう

【ノルマンディーのおはなし】

ノルマンディーは、ノルマン人の築いた土地。
パリに住む王家にとって、このノルマン人は
大いなる恐怖でした。何度も攻撃されたため、
たまりかねて、シャルル3世は、ノルマン人ロロ
条約を結び、ノルマンディーをノルマン人の領土として
認めることにしました。これがきっかけとなり、
ノルマン人の力が増大していったのです。

ロロはその後、ノルマンディー公となり、
ノルマンディーの領土を統括していきます。
6代目のノルマンディー公が、ロベール2世
彼がアンリ1世にたくみに近づき、王家に対し
ノルマンディーの地位を確立させました。

このロベール2世と愛人の間に出来た子
ギョーム2世(愛人との間の子だったので庶子公と呼ばれています)
がなんと、海を渡ったイギリスの土地を我が物としたのです。
ここで、彼は、征服公と呼ばれるようになります。
ギョーム2世はイギリス王となり、名をイギリスでは、
ウィリアム1世としました。

ノルマン人がイギリス王に!!
これは、フランス王家カペー家には、
大きな不安をもたらしました。

ギョーム2世(英:ウィリアム1世)が亡くなったのち
次男がイギリス王になりウィリアム2世に即位
長男ロベールがノルマンディー公となりました

しかし、長男ロベールは、この決定に憤慨します。
長男の我こそが、イングランド王だ!!と。
そこで、フランス王家フィリップ1世に助けを求めます。

王家を散々、コケにしたノルマンディー公国…
いまさら、助けを求められても…と思いつつ、
いや、ここでノルマンディーには貸しを作って、
且つ、イギリスにも自分の力が及ぶかも…と、
フィリップ1世はノルマンディー公ロベール
ともに2度にわたり、ウィリアム2世を攻めています

このように、ノルマンディーとフランス王家は切っても
切れない仲になっていくのです

ちなみにこのノルマンディー公長男ロベール
結局、イギリス王にはなれず、そのまた弟アンリ1世(英:ヘンリー1世
に王の座を奪われてしまいます。
フィリップ1世もちょっと見る目がなかったですね…

このフィリップ1世、このほかにとんでもないことを
してしまいます。略奪愛です。
当時、アンジュー伯の奥さんだったベルトラートと不倫
元の奥さんを無理やり修道院へ送ってしまいます。
この不貞に司教や教皇は憤慨し、フィリップ1世は教会から破門させられてしまいます。

しかし、愛の絆は強く…別れられない二人。
結局、この略奪愛で、家臣の信用を失ってしまいます。
修道院に送られた妻との間に息子はいました。
息子を王にした方がいい…と生存中にも関わらず、
王の実権は息子のルイ6世(肥満王)に移ります

肥満王…大丈夫なのでしょうか?
ちょっと不安ですね。

次回をお楽しみに★
# by cuicuifrancais | 2010-03-09 17:03 | フランスの歴史

前回でついに、フランク族からフランク王国を築き上げた
カロリング朝が滅亡。
カペー朝が誕生しました。カペー朝に政権が変わったフランス。
どうなっていくのでしょうか?

カロリング朝時代に力をつけたパリ伯ユーグの息子
ユーグ・カペー
が諸侯たちに選ばれて王になった…ものの、結局、ノルマンディー、ブルゴーニュなどの
力のある地方諸侯たちに反発にかなり苦しめられます。
しかし、生存中に、息子のロベール2世(敬虔王)を世継ぎと定め、揺るぎないカペー朝の世襲の土台を固めたのです。

このロベール2世(敬虔王)。
名の通り信仰深い人なのですが、この人は子沢山で有名。
結婚を3回もし、最後の奥さんとの間には
7人もの子を残します。
この多くの子のおかげで、カペー家の血が
長く、世に続くことになり、血統の土台を固めたのです。

長男ユーグを世継ぎと定めるも、
ロベール2世(敬虔王)よりも早世。
そこで、弟のアンリ1世が王となります。

アンリ1世はもともとブルゴーニュ地方を治める
ブルゴーニュ公でした。

ここで、少しブルゴーニュの話をしましょう。

ブルゴーニュは地方諸侯として、かなり力をもち、
一度、諸侯だったラウールはフランス王にまでなっていますね。ラウールと王になった際、
その弟がブルゴーニュ公を継ぎ、ブルゴーニュの力もその間は健在でした。

しかし、その後、ジルベール・シャロンがブルゴーニュ公となった際時の人、パリ中心で力をふるっていたパリ伯ユーグにブルゴーニュの単独政治を阻まれ、パリ伯ユーグの臣下にさせられてしまいます。
そこから、ブルゴーニュは、カペー家の臣下となり、
カペー家のアンリ1世がブルゴーニュ公となり、ブルゴーニュを治めていたのです。

しかし、長男ユーグが死去。
アンリ1世はパリに呼び戻され、
王となるのです。

しかし、戻ったらとんでもないことになってしまいました。
末弟ロベールと彼を溺愛する母は、
末弟ロベールが王とばかり思って、アンリ1世を憎み始めていました。末弟ロベールと母に何度も反乱を起こされてしまいます。

さすがに、身内に何度も反乱を起こされてはかないません。
また、格好が悪い…

そんな悩ましいアンリ1世
地方諸侯たちは、たくみに近づきます。
ノルマンディー公ギューム2世は、アンリ1世の味方にうまくつき、
その代わり、ノルマンディーの領土を認めてもらう…

しかし、これでは、地方諸侯の者の力を増大させてしまうだけ…
アンリ1世は悩みます

しかし、身内での反乱をうまく収めるには、仕方がありません
このように、地方諸侯たちの手をかり、結局、諸侯たちの
力を増大させる結果を招いてしまうのです…

末弟ロベール
にブルゴーニュ公の地位を譲る
ことで解決するのですが、結局、諸侯問題の
課題を大きく残すことになってしまったのです。

中央政権と地方諸侯の問題は、まだまだ今後も続くのです。
はたして、どのようにフランスは統一されていくのでしょうか…

次回をお楽しみに★
# by cuicuifrancais | 2010-03-02 10:41 | フランスの歴史

前回は、ノルマン人討伐に功績のあったパリ伯ウードが王になり、
しかし、血が大切とカロリング家の血を引くシャルル3世(単純王)が王になり、
しかし恨みがあったウードの弟ロベールシャルル3世(単純王)が衝突…
とフランスがめまぐるしく2転3転しましたね。

しかし、ウードの弟ロベールシャルル3世(単純王)はともに戦死。
一体、誰が王になるのでしょうか?

王になるには、王に使える諸侯たちが納得する人物でなければ
なりません。この点で、王はかなり苦戦するのです。
シャルル3世(単純王)も、カロリング家の血を引いてはいたものの
単純には、諸侯達をまとめることができませんでした。
現在の政治だって同じですよね。

そこで、王の血を引いていなくても、諸侯の中で
力がある人物が諸侯たちの手によって選ばれました。
ブルゴーニュの諸侯であったラウールです
しかし、世継ぎがないまま死去したため、
再度、王はカロリング家の血を引く者に戻されます。

シャルル3世(単純王)の子、ルイ4世(海渡王)です。

この王の名前は、何故、このような名になったのでしょうか?
ルイ4世(海渡王)は、シャルル3世(単純王)と、イングランド王の
娘との間の子なのです。もちろん、イギリスと親戚関係を結んでおいた方が
武器、戦力ともに有利。このように、海外からお嫁さんをもらって、
また、娘を差し出して、同盟関係を結んでいたのです。

しかし、ルイ4世(海渡王)が生まれた920年。
父のシャルル3世(単純王)は、パリ伯ウードの弟ロベールと戦争中。
923年に父は投獄。そこで、安住の地を求めて、
当時3歳のルイ4世(海渡王)は母の実家のイングランドに身を寄せていたのです。
この海渡王という名は海を越えて亡命したことに由来しています

亡命中に、父シャルル3世(単純王)は死去、ロベールも死去、
ラウールも死去、そこで、ルイ4世(海渡王)がフランスに呼び戻されて
王になります。

しかし、長い亡命中の間に、フランスは大きく変わってしまいました。
もうカロリング家の力など、全くなく、諸侯の力が大きくなっていたのです。
ルイ4世(海渡王)も王とは名ばかり。パリ伯ユーグの力が増すばかりでした。
まさに、浦島太郎状態。あやつりやすい人物を王にして…というわけです。

ルイ4世(海渡王)の死去後も、息子ロテールが王位を継ぎます。
しかし、パリ伯ユーグの後見のもと。全く力がふるえません。
最終的には、パリ伯ユーグの息子ユーグ・カペーとの対立が
激しくなっていきました。ここに、諸侯カペー家とカロリング家に
深い溝ができてしまったのです。

ルイ4世(海渡王)の子、ルイ5世(怠惰王)が即位。
しかし、名の通り、怠惰な上に、子もなく、ここに
簡単に、カロリング家はお家断絶となります。

そこに、待っていましたとばかりに現れたのが、
もちろん、力をつけた諸侯、カペー家です。
ユーグ・カペーが諸侯たちの国王選挙で、
次の王に選ばれます。ここに、カペー朝が誕生したのです。

カペー朝に政権が移ったフランス、今後、どうなっていくのでしょうか?
次回をお楽しみに!!

【海外との婚姻関係】

ルイ4世(海渡王)は
シャルル3世(単純王)とイングランド王の娘との間の子
そして、その息子ロテールは、
ルイ4世(海渡王)とドイツ王との娘の間の子。
この頃から、諸国との婚姻関係ができてくるのです。
この婚姻関係がフランスに大きな問題をもたらしていくのです
# by cuicuifrancais | 2010-02-23 11:55 | フランスの歴史

2010年2月10日(水)

月1回のザ・プリンスパークタワー東京
33Fのフレンチレストラン”ブリーズ・ヴェール”で
行われるフランス語セミナー。
2月のテーマは”ノルマンディー”でした。

まず、私の楽しみは、同じ33Fにあるバー
で夜景を見ながら飲むカクテル。
イチゴの季節になったので、イチゴのカクテルメニューが
登場しました。
今回飲んだのは、シャンパンとイチゴの”ストロベリー二”
こんな美味しいカクテルは久しぶり。

今回はノルマンディー。
ノルマンディーの歴史と、フランス語の挨拶の仕方を
学習しました。

そして、吉田シェフのお料理。今回はどんなお料理だったでしょうか?

では、写真でお楽しみくださいね★

以下は写真です↓

f0115627_12255461.jpg

夜景とともに楽しむストロベリー二

f0115627_12263958.jpg

いろいろな質問に答えてくれる吉田シェフ

f0115627_12272082.jpg

アントレのカマンベールのコロッケとそば粉のガレット

f0115627_1229569.jpg

帆立のポワレ アンディーブのカラメリゼ オレンジの香り

f0115627_12301988.jpg

茨城産仔牛肉のブランケット シードル風味

f0115627_12312167.jpg

デザートのタルトタタン

f0115627_12315349.jpg

最後にこんなに可愛いお菓子も出してくれます
# by cuicuifrancais | 2010-02-15 12:32

前回は、1度は統一されたフランク王国は
シャルル3世(肥満王)の怠惰な政治で
再び、フランク王国は3つに別れ、

西フランク王国の王には、
ノルマン人討伐に功績のあった、
パリ伯のウードがなることが決まりました。

しかし、そこに、待っていたのは、
カロリング家の血を引く、ルイ2世(吃音王) 息子シャルル3世(単純王)
この後ウードはどうなるのでしょうか?

ウードはノルマン人討伐に功績があっても、
カロリング家の血を引く人物ではありませんでした。
よくある話ですが、「ここは血統が大事!」という
諸侯たちや大司教たちの中では、
王は、シャルル3世(単純王)である!という
声が高まっていたのです。

そして、ウードが王である中、カロリング家擁護のランス大司教は、シャルル3世(単純王)
を王として戴冠させたのです。

これでは、ウードの立場がありません。
そこで、自分の功績を認め、王としてくれた
東フランク王国の王アルヌルフを頼ります。
しかし、アルヌルフは、「王はシャルル3世である」と…

ウードは、援者を失い、その後、孤立し、3年間シャルル3世側と戦った後に
死去。ノルマン人討伐では、英雄だった彼の悲しい最期でした。

ウードが死んだのち、
正式に王となったシャルル3世(単純王)
とっても単純に、ノルマン人と和平を結びます。
「ノルマンの地は君たちノルマン人にあげるから、パリ周辺を攻撃しないでください」
「それと、娘もあげますので」
といういたって、単純な条約を結びます。
この単純な条約の後、ここにノルマンディ公国が誕生します。

しかし、こんな単純な王。
やはり、周りの諸侯たちをまとめていくことができませんでした。

当時同じく力があったブルゴーニュの地に住むブルゴーニュ公ラウール
そして、なにより強敵は、ウードの弟、ロベール
兄を討ったシャルル3世(単純王)をよく思っていないのは当たり前です。

兄ウード
が死んだ989年から922年の24年間。
ロベールは耐えに耐えてきましたが、922年ついに挙兵。
シャルル3世(単純王)を追い出し、戴冠して念願の王となります。
しかし、翌年の923年、シャルル3世(単純王)も黙っていません。
二人は正面衝突。
しかし、二人とも戦死…という結末を迎えます。

さあ、この後、誰が王となるのでしょうか?
次回をお楽しみに★


【ノルマンディー】

みなさん、ノルマンディーというと、モンサンミッシェルがあって
田園風景が広がり、のどかなイメージですが、昔、
ノルマンディーといったら、ヴァイキング!!だったわけです。
シャルル3世と和平を結んだのは、ノルマン人の長であった
初代ノルマンディー公のロロン。いつも馬に乗らずに、
歩いていたということから、徒歩公という愛称が付けられています。

シャルル3世と和平を結んだ際に、
キリスト教信者となり、ロベールと名を変え、
諸侯をまとめ、勢力を伸ばしていったのです。
# by cuicuifrancais | 2010-02-15 10:40 | フランスの歴史