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<   2010年 01月 ( 9 )   > この月の画像一覧

前回は、兄弟喧嘩の末、フランク王国は
西、中央、東の3つに別れ、
末っ子のシャルルが継いだ西フランク王国が
現在のフランスとなった…
まで話ました。

では、今日はその後のフランスをお話しましょう

前回お話しした末っ子シャルルが
①シャルル2世(禿頭王)→苦労の生涯を送る

シャルル2世の長男が
②ルイ2世(吃音王)→体が弱くすぐに死去
体が弱いわりに、奥さんが3人。
正妻の間に、男児2名
2番目の妻との間に、女児1名
3番目の妻との間に、男児1名
彼の子孫繁栄は後のキーワードをなります

③ルイ3世とカルロマン(共に愛称なし)シャルル2世の長男(ルイ3世)とその弟(カルロマン)。

何故か2名が王という異例の時代。
この時期、現在のノルマンディー辺りは、
「ノルマン人」と呼ばれるヴァイキングが住んでおり、
ノルマン人との戦いで苦労していました。
ルイ3世はノルマン人を打ち破り、功績を上げたのですが、
すぐに死去。

その後、カルロマンが単独で王となります
④カルロマン
ルイ3世亡き後、再度、ノルマン人の攻撃を受け、
悲惨な状況に…狩猟中の事故で死去

⑤シャルル3世(肥満王)
肥満?そうなんです、本当にデブで、
全く評判の良くない王の1人。

お隣、東フランク王国の王だったシャルル3世。
西フランク王国は当時、幼子ばかりで
後継者がいなかったため、この東フランク王国の
シャルル3世に西フランク王国の王も兼ねて
もらうことになったのです。

出来が悪くても、歴史を辿れば、遠い親戚なので、
この人に頼るしかなかったんですね。仕方がないですね…

そして、なんと、シャルル3世は、イタリアの王の座も
譲渡してもらい、再度、シャルル3世のもと、
西、東、中央が1つになってしまったのです!!

ここで頑張ればいいものを…さすが肥満王。
食べてばかりで何もせず、ノルマン人に対しては
美味しいもの目当てか、かなり弱気。
巨額の富を与え、勝手に和平を結んでしまいました。

なんだこの王は!!と周りの不満はつのるばかり。
ついに、東フランク王国にいた甥のアルヌルフが兵を挙げたのです。

しかし、肥満王は、逃げ惑うばかりで甥と
戦いもせずに、2ヶ月間逃げ惑い、挙句、
死んでしまいました。最後までいいところナシだったんですね…

勝利した甥アルヌルフは、
■東フランク王国の王→アルヌルフ自ら王に
■西フランク王国の王

ノルマン人討伐に功績のあった、
パリ伯のウードに与えることと決めました

ここで、統一された西、東、中央のフランク王国は
また再び、分裂。そして、現在に至るまで、
もう2度と統一されることはありませんでした。

ウード伯のもとでフランスは再出発。
しかし、ウード伯には、思いもよらない
人物が待ち構えているのです…
それは、②ルイ2世(吃音王)
の息子シャルル3世。

父ルイ2世が死去したとき、
幼く、何もできなかった…しかし、
成人となった、まさにカロリング家の血を引く
彼の存在は…?フランスにとって、どんな影響を
及ぼしていくのでしょうか?

次回をお楽しみに★
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by cuicuifrancais | 2010-01-29 16:08 | フランスの歴史
兄弟喧嘩の末に…

前回は、シャルルマーニュがせっかく広げた領地が
息子と孫たちの紛争により、危機に面してしまった…
そんなところまで話しましたね。

817年、ルートヴィヒ1世(敬虔王)は、
長男ロタール、次男ピピン、 三男ルートヴィヒ
に領土を分割相続させました。

しかし、823年
末っ子シャルル(カール)が生まれ、
831年に、4人で領土を分けるように指示を変えます。
納得いかない、兄3人は猛反対。
しかし、父ルートヴィヒ1世(敬虔王)は、末っ子可愛さに
意見を変えません。

事態は収まらないまま、838年に次男のピピンが死去
840年には、ルートヴィヒ1世(敬虔王)も死去します

残った
長男ロタール、三男ルートヴィヒ、末っ子シャルル(カール)
この3人の戦いとなりました。
841年には、3人が戦い、その後、独り占めを狙う
長男ロタール対三男&末っ子
まさに、子供の取り合いと同じ状態になります

842年、ルートヴィヒとシャルルは、ロタールに、
領土の分割を迫り、王国を3分割することを約束する
ウェルダン条約が成立しました

1:西側の西フランク王国→シャルルのもの
2:真ん中の中フランク王国→ロタールのもの
3:東側の東フランス王国→ルートヴィヒのもの
と決まりました

その後3人は、
1:シャルル→西フランク王国の国王シャルル2世(禿頭王)に
2:ロタール→皇帝ロタール1世に
3:ルートヴィヒ→東フランク王国の国王ルートヴィヒ2世
となります。
兄弟喧嘩の末に、
1:フランス、2:イタリア、3:ドイツの始まりが出来たわけです。

フランスは末っ子シャルルが王となり、
統治していくわけですが…その後はどうなったのでしょうか?

「禿頭王」という愛称がついているくらいなので、
まあ、「ハゲ」だったんでしょう…
彼が王となった後、その頃には、カロリング家の力も衰え、
貴族たちの統一が非常に難しく、苦労したといわれています。
877年54歳で死去。お父さんに可愛がられたまでは良かったのですが、
結局苦労の多い人生でした。髪の毛がなくなるのも分かりますね…

その後は、息子のルイ2世「吃音王」が王位を継ぎます
「吃音」なんて…また弱そうな愛称ですね。
その名の通り、病弱で、王位に2年就いた後に死去。
しかし、体が弱いわりに、奥さんが3人もいて、
正妻の間に、男児2名
2番目の妻との間に、女児1名
3番目の妻との間に、男児1名をもうけます

子孫繁栄ですが、その後、フランスは、安泰なのか…??
気になる先は、次回、お楽しみに★

【フランス最古の文献って?】

842年の「ストラスブールの誓約」です。
これは、王国独り占めを狙う長男ロタールに対し、
三男ルートヴィヒがと末っ子シャルルが同盟を交わした
誓約書です。これは、お互いの兵士たちも理解できるように
ラテン語ではない、ラテン語によりちかい文体で書かれており、
これが一般的に使われていたフランス語の
最古の文献と言われています。
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by cuicuifrancais | 2010-01-25 12:22 | フランスの歴史
2009年1月13日(水) レッスン風景

1月13日のテーマは、「パリ」
みんなで、パリの観光に欠かせない
ノートル・ダム寺院やルーブル美術館、ポン・ヌフ
についての歴史を学びました

少しでも、建築物に知識があると
観光の楽しさは、倍以上になります★

そして、吉田シェフの作ってくださった
パリにちなんだ美味しいお料理を頂きました

パリにちなんだお料理を写真と一緒に見ていきましょう

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アミューズ・ブッシュとして、シェフが、なんと、ルーブル美術館をイメージして
作ってくださいました。サーモンがとってもキュート!!

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マッシュルームのサラダ シャラン産の鴨を添えて
マッシュルームはパリ郊外で多く作られる野菜です

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メインのヴォル・オー・ヴォン
19世紀の王室おかかえであったグランシェフ、アントナン・カレームが
考えた料理。この折りパイが当時では洗練されたお料理だったのです

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パリブレスト 
ツール・ド・フランスの際、自転車の車輪に似せて作られたお菓子です

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お料理の説明をしてくださる吉田シェフ

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エッフェル塔ではありませんが、この日は東京タワーがとってもきれいでした

ザ・プリンスパークタワー東京のフランス語セミナーの詳細はこちら↓
http://www.princehotels.co.jp/parktower/seminor/culture_vo37.html
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by cuicuifrancais | 2010-01-14 03:27
シャルルマーニュ登場


前回はついに、メロヴィング家が倒れ、ピピン3世のもと
カロリング朝が誕生しました。
今日は、ピピン3世の息子、みなさんもよく聞く
シャルルマーニュの登場です

768年、父であるピピン3世が死去。
その後、弟のカールマンとシャルルマーニュは
共同治世するのですが、弟カールマンがすぐに死去。
その後46年間、一人で王の座に君臨します

シャルルマーニュのこの46年間は、
攻めて、攻めて、攻めまくる人生。
行くところ、敵ナシ。
攻めては支配し、結果として、
現在のフランス、ベルギー、オランダ
ルクセンブルグ、スイス、オーストリア、
スロヴェにア、モナコ、ドイツ、スペイン
チェコ、ハンガリー、スロヴァキア、クロアチアは
シャルルマーニュの支配下となったわけです

現在のEUは、「シャルルマーニュ支配地の再来」と
言われるほど。それくらい、彼のその威力はすごかったんですね

シャルルマーニュのスペイン攻めの様が、甥ローランの活躍を
歌った「ローランの歌」という武勲詩になって残っています。
シャルルマーニュは後の世では、英雄として文学の中に
登場する、フランスには欠かせない人物なのです

では、いったい、どんな人だったのでしょうか?
伝記作者アインハルトによれば、
身長:195cm
体系:やや小太
髪の毛:ふさふさで銀髪
声:甲高い
特技:水泳
好物:焼肉
うーん、身長が高いのはいいのですが、あとはなんだかカッコいい感じを
想像できないような…みなさんはいかがでしょうか?

結婚:5回(妻5人) 第2夫人4人
子供:約20名
晩年、娘の結婚相手を認めず、娘は許可なく勝手に
結婚し、スキャンダルを起こすことがしばしばあったとか…
晩年は、ちょっと頑固ジジイのような感じですね。

しかし、こんなシャルルマーニュ最大の不幸は、
息子がたった一人しか生き残らなかったことです。
生き残った息子の名は、ルートヴィヒ1世(敬虔王)。
彼がシャルルマーニュの死後、全土地を相続し、
単独統治することになったのです。

しかし、残念なことに、偉大なる父には全く似ず、
ルートヴィヒ1世(敬虔王)は臆病者で優柔不断でした。

ある日、王宮の一部が崩壊し破損。
それを見て、死の訪れをあらわす神の意志と勝手に判断し、
恐怖のどん底に…
敬虔王と名が付いただけに、信仰深かったのでしょう…
息子3人 長男ロタール、次男ピピン、3男ルートヴィヒ
に領土を分け与え、国の存続を託すこととしたのです。

そんな中、末っ子のカール(シャルル)が生まれます。
こんなときに生まれたカール(シャルル)を神からの生のしるしとして
溺愛。どうしても、カール(シャルル)にも土地を残してあげたい…

しかし、領土をすでにもらった息子3人はいい顔をする
わけがありません。カール(シャルル)にあげる土地はない!そういう
3人の息子組と、父とカール(シャルル)組の間に亀裂が生まれます。

この亀裂を埋められないまま、ルートヴィヒ1世(敬虔王)はあっけなく死去。
もちろん、兄弟間の亀裂は深まる一方。
こうして、英雄シャルルマーニュの築き上げた大国は、
ガラガラと音をたてて崩れていくのです。

歴史というものは、あっけなく変わるものですね。
そこがまた歴史の面白いところですね

次回は、この4人の兄弟の対立から
話を進めていきましょう

【読んでみたら?】

◆ローランの歌◆

この文学は、ちょうど、日本でいえば、
源氏物語が書かれた頃に書かれた武勲詩です。

時は、シャルルマーニュのスペイン、カタルーニャ攻め。
甥のローランは、最も危険な後衛軍に推挙され、
ピレネー山脈の地で、サラセン(スペイン)軍に襲われる。
この危機を角笛で、シャルルマーニュに知らせるべきか?
いいや、ここは、叔父の名誉のため…ローランは危機を
知らせることなく壮絶な死をとげる。
戦死直前に鳴らした角笛の音を聞いて、駆けつけた
シャルルマーニュが、サラセン軍を打ち破り、大勝利を収める。
ローランの魂は、天使ガブリエルに守られて、昇天した。
おしまい。

(これは2009年12月26日にCuiCuiメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 12:13 | フランスの歴史
カロリング家の台頭


前回はフランク王国が均等分割相続により、
国が分裂し、その中で、貴族のカロリング家が
各地の軍事勢力を握り、権力を増していった…
というところまで話しましたね。

ちょうどこの頃、隣のローマでは、東西に分裂し、
ローマ教皇派と東ローマ帝国のビザンツ皇帝派に別れ、
対立を深めていました。
ローマ教皇はこの対立に勝つために、強力な味方を
探していたのです。

カロリング家にとっては、絶好のチャンス。
宮宰であったカロリング家のピピン3世は、賢くも
ローマ教皇に近づき、守る代わりに、王権を要求したのです。

ピピン3世は、ローマ教皇に尋ねます。
「王の称号をただ持つのみの者、
王ではないが、王権を握る者
どちらが王であるべきなのか?」と。

つまりこれは、
フランク王国の元であるクロヴィスの血を引くメロヴィング家か
それとも、カロリング家か?どちらか選んでください…ということです。

教皇の答えは
「王権を握る者が王であるべき」
カロリング家に軍配が上がったのです。

これをうまく使い、
751年、ピピン3世は、フランク王国の貴族たちから
フランク王国の王に選ばれます。
ここで、邪魔になるのが、
メロヴィング家のキルデルク3世。
ピピン3世は、キルデルク3世をすぐに捕らえ、幽閉します。

邪魔者を消し、ピピン3世は自ら王となり、
ここに、フランク王国カロリング朝が誕生したのです

ピピン3世は、まだ政治的戦略の手をゆるめません。
王位を認めてくれた教皇へ、きちんとお礼をします。
現在のイタリアのラヴェンナの地を奪い、教皇へ
その土地を寄進したのです。

このピピン3世のおかげで、カロリング家の力はゆるぎないもの
となったのです。

768年、ピピン3世は死去。
しかしその息子、カールは父を超えた
もっと大きな権力を手にするのです。

次回は、みなさんも1度は聞いたことのある
シャルルマーニュの登場です!

【観光★行ってみたら?】

◆サン・ドニ大聖堂◆

サン・ド二はパリ近郊の地。フランスでワールドカップが開催された際
このサン・ド二の地にサッカー場が建設されました。
シャルルドゴール空港から車でパリ市内に向かう際に見ることができます。
この地に、フランスの歴代の王が葬られているサン・ド二大聖堂があります。
サン・ドニは、Saint-Denis と書き、聖人ド二という意味。
サン・ド二が、モンマルトルで斬首され、その後、自分で首を持って、
この地まで歩き続け、絶命した…その話にちなんで、この地は、
「サン・ドニ」と名付けられたのです。
ここのピピン3世も眠っています。

(これは2009年11月26日にCuiCuiメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 12:09 | フランスの歴史
フランク王国の危機

さあ、前回は481年、ついに、クロヴィスがフランク族を統一し、
フランク王国が誕生しました。「○○族」ではなく、「国」という
概念が出てきましたね

今日は、このフランク王国を見ていきましょう

481年の即位したクロヴィスは、ガリアの地を一気に
攻め、ローマ人を排除し、我が物としていきます。

486年にはガリア北部を支配。
496年には、もともとローマ支配下だったガリアの宗教であるカトリックに
クロヴィス自ら改宗し、ガリアの心をもつかみます。
500年には、現在のブルゴーニュ地方、アキテーヌ地方を支配。
508年には、パリを都を決め、セーヌ川左岸に修道院を建設。
それは、今でも、クロヴィス塔として、パリの街に残っています

しかし、そのクロヴィスも511年に死去します

クロヴィスが築き上げたこの、広大な領地。
これは、フランク人ならでは、財産分与方法「均等分割相続」
の習慣にならって、4人の息子に分割されました。
長男が継いだ方が、問題がないんじゃない?と思いますよね。
その通り。「均等分割相続」のために、フランク王国は波乱万丈な運命をたどります

息子4人は、以下4名。
テウデリヒ1世、クロドメール、ヒルデベルト、クロタール1世

この中で、クロタール1世が最も長生きし、4人に分割された
領土は1度は、クロタール1世のもとに再統一されます。
しかし、この「均等分割相続」のため、息子、その息子と領土が
分割されてしまい、領土が小さくなり、「国王」というより、どこも「分小国王」と
なってしまい、王の威厳が保たれませんでした。つまり、各国の王の
指導力不足となってしまい、統一ができなくなってきました。

王の力の代わりに、力を増していったのは、王の側近の貴族たち
そして、その貴族をまとめる「宮宰」と呼ばれる人たちでした。
この「宮宰」で権力を増していったのが、「カロリング家(朝)」の人たちです。

まず、「カロリング家(朝)」は、各分国における「宮宰」の役職を得たのです。
そこで、その地の貴族たちに、領地、特権を保障する代わりに、軍事奉仕を求め、
軍事勢力をまとめることで、権力を我が物としていったのです。

この話、どこかに似てますね。そう鎌倉幕府の「ご恩」と「奉公」です。
同じようなことが、500年代に行われていたのですね。
ちなみに、この頃、日本は、大和朝廷の時代です。

さあ、この、「カロリング家(朝)」の台頭は、この後、フランスにどのような
影響を与えていくのでしょうか?

次回をお楽しみに★

【観光★行ってみたら?】

◆クロヴィス塔◆

国家に功績のあった偉人が眠る「パンテオン」
ここには、キューリー夫人やビクトル・ユーゴー、元ミッテラン大統領が
眠っています。
その隣には、サンテ・チェンヌ・ドゥ・モン教会があります。
そこには、パリの守護神ジュヌヴィエーヴがまつられています。
そのまた隣にある高校の一角に、修道院の痕跡である「クロヴィス塔」
があるのです。是非、パンテオン近くに寄った時は見てみてくださいね

(これは、2009年11月19日にCuiCuiメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 12:06 | フランスの歴史
フランク王国誕生

前回は、ケルトはカエサルの攻撃を受け、その後ローマ化が
進んでいった…というところまで話ましたね。

ローマは、ケルト人がいたガリアの地(現在のフランス)を
手に入れ、これで、ローマも安泰か…というところへ
ローマ人にとっては、思ってもいないことが起きたのです。

そう、1度は聞いたことがある「ゲルマン民族の大移動」です。
北から、ゲルマン人(ガリアの北東部に住む民族。主にドイツ辺りに住んでいた民族)
が南下してきたことは、ローマにとっては、大きな脅威でした。
確かに、パソコンもテレビもない時代。何を言ってるのか分からない未知な部族が
急に来たら怖いですよね…

南下の原因は、はっきりは分かっていないのですが、気候の変動などで、
食物が採れなくなり、肥沃な土地を求めて南下してきたという説が有力です。
戦いのない平和な南下もあれば、多くの戦いをしての南下もあり、その中で、
ゲルマン同士まとまり、ガリア国境からライン川周辺に居る人々を
「フランク族」というようになりました。

フランク族は、敵味方を見分けるために、みな、同じ服装、同じ髪型、
同じ武器で戦い、統一武装を始めた集団として知られています
統一された集団での攻撃は、心理的効果もあり、かなり強い集団として
恐れられていました。確かに、同じ格好の人が何人もいたら、怖いですね。

この「フランク」という言葉は、「勇敢な」という意味であり、戦いに優れており
周りからは恐れられていた…ということが分かります。

このフランク族が354年ガリアを一斉に攻撃。ローマ帝国は混乱に陥ります。
そこで、力が弱くなっていたローマ帝国は、ここは戦いを避け、フランク族に、
現在のベルギーとオランダの領地を与え、他のゲルマン人が襲って来たら、攻撃するよう、
傭兵として、彼らを迎え入れることに決めたのです。
このことにより、フランク族は、現在のベルギー、オランダの地に1世紀の間
留まることになったのです。ここで、フランク族とローマの文化が交じり合い、
現在のフランス文化の素がここで形成されたのです。

ゲルマンとローマ2つの要素をもつもの、それがフランスなんです。
フランスのラテンにも、ゲルマンにも属さない、特異な文化、性格の理由が
ここで分かるような気がしますね

そして、440年、ついにフランク族がガリアの地へ南下。その後、フランク族はガリアの地を
拠点として発展していくのです。

フランク族内での紛争の中、481年クロヴィスが、フランク族を統一。
フランク王国が誕生しました。これが、まさに、フランスの始まりと言えるでしょう。

このフランク王国、どうなっていくのでしょうか?

【これ、読んでみたら?】

◆アンドレ・シェニエ◆

フランス革命時の詩人。
古典文学や詩の翻訳で活躍しました。
フランスの歴史は長い…そんな歴史にロマンスを
感じ、フランスを愛した詩人は、フランス革命時の
「恐怖政治」の中、ギロチンにかけられ、命を奪われます。
フランスの歴史を愛し、素のフランスを守ろうとした
そんな詩人でした

◆アンドレ・シェニエの詩◆

3000年の歳月がホメロスの灰の上に流れ、
3000年このかた崇められてきたホメロスは
栄光と不死とにより今も尚若々しい

(これは、2009年11月11日にCuiCuiメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 12:03 | フランスの歴史
ガロ・ロマンへ

前回は、現在のフランスの地に、総して「ケルト」
と呼ばれる人々が様々な文化と言葉を持って生きたいたのですが、
国家というまとまりは一切なかった…という点まで話しましたね。

この「国家」という概念を持たなかったことが、
あの有名なローマ人「ガイウス・ユリウス・カエサル」の
ケルト進攻を許してしまったのです。

紀元前58年、ヘルウェティイ族(現在のスイス近辺に住んでいた部族)が
ローマの属州になることを拒否したことを原因に、
紀元前51年までの間、カエサルはケルトを攻撃をし続けます。

最大の戦いは、紀元前52年の「アレシアの戦い」。
(アレシアは現在のフランス・ディジョン近辺)
アルウェルニ族(現在のフランス・オーヴェルニュ地方近辺に住んでいた部族。
オーヴェルニュ (Auvergne) の名はこの部族に由来)
出身のウェルキンゲトリクスが、決起を促し、ケルト民族をひとつにまとめることに
成功します。

そうなると、カエサルもそう簡単には勝てません。
またウェルキンゲトリクスは、長年、ローマ人の戦い方を研究していたため
さすがのカエサルも苦戦の連続…

やっとの思いで、この激しい戦いを制したカエサルは、ローマでの名声が高まり、
現在のフランスの地は完全にカエサルに征服されたのです。

負けたウェルキンゲトリクスはパリに送られてしまいます。

しかし、勝ったのちも
カエサルのウェルキンゲトリクスに対する敵意は並々ならぬものでした。
その証拠に、カエサルは負けた捕虜を処刑することはなかったのですが、
ウェルキンゲトリクスは、カエサルの凱旋の際に、見せしめのごとく
処刑されています。それほど、ウェルキンゲトリクスが、後々までも
英雄と崇められることをカエサルは嫌ったのです。

さて、ローマに征服された後の現在のフランスの地は、
この後500年間に渡ってローマ化されていきます。
ケルト語はラテン語に変わっていきました。

でも、思わぬところでケルト語が残っているんです。
なんでしょうか?

そう、数字です。20進法や8、15を基に考えますね。
80をquatre -vingts(20進法)
1週間を8jours
2週間を15jours
という言い方は、ケルトの名残だと言われています

しかし、わずかながらにケルト語を残すものの
言葉、文化のほとんどがローマ化されていきます。

ローマもここで安泰か…と思った矢先
歴史上大きな「ゲルマン民族の大移動」
が始まり、ローマを脅かします…

さて、今後、フランスの地はどうなっていくのでしょうか?
続きは次回。

【これ、読んでみたら?】
◆19世紀ロマン主義 ネルヴァル 「オーレリア」◆

ローマやケルトの美術に凝っていた大叔父に
育てられたネルヴァルは、子供の時から神秘思想に
感化され、夢想主義な子になる。
25歳頃に、女優ジェニーに惚れ込み、
祖父の遺産を、ジェニーにつぎ込んだ挙句、ふられる。
のち、ジェニーの死を知った彼は、ジェニーを思い、
「オーレリア」を書く

◆「オーレリア」のあらすじ◆
オーレリアを探し求め、さまよう。
見つからず、第二の人生である冥界に降り立つ。
しかし、ここでも、オーレリアに会うことが許されず、
彼女に会える甘美な夢ばかり見るようになる。
多々試練に耐え、女神によって、救われる。
新しい彼の生が始まる…おしまい。
*ストーカーになった男性の話が、
更正するような話です。

(これは、2009年10月28日にCuiCuiメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 12:00 | フランスの歴史
ガリア人って?

そもそも、フランスって国はいつからあるのでしょうか?
いろいろな見解はありますが、フランク王国を統一した
クロヴィス(481年に王に即位)がフランスの元と言えます。

そのクロヴィスが現れる前は…
フランスの地は、当時ローマ人に「ガリヤ」と呼ばれる
「ガリア人」が住んでいました。
この「ガリア人」はケルトと呼ばれる民族で、
現在のフランス、スペイン、イギリス、ハンガリー、トルコ
近辺に移住してきた民族です。

当時、今のようにインターネットなどありませんので、
ローマ人は、とにかく、自分たちの地より北側辺に
住んでいる人達を、ひっくるめて皆「ガリア人」と呼んでいました。
しかし、厳密に言うと、
フランス近辺に住んでいたケルト
トルコ、ハンガリー近辺に住んでいたケルト
ブリテン諸島近辺に住んでいたケルト
とは、言葉も文化も違っていたんです。

その証拠に、
ブルターニュのには、ブリテン諸島系ケルト語の
「ブルトン語」という言語が残っています。
みなさんのよく知るお菓子「クイニーアマン」は、
ブルトン語で「バターのお菓子」という意味。
ブルターニュには、今尚、このケルトの文化
が残っているのです。

この頃、フランスの地の2/3は森林地帯。
ケルトの文化は、ローマの「石」文化に比べて
「森林」文化だったのです。
石畳の多いフランスからは想像もつかないのですが、
「石」は、その後ローマ人のもたらした文化なのです。

つまり、ローマ人が、このケルトの住む地に
やって来るわけですね。
ここで、紀元前58年、有名な人物「カエサル」
が登場する訳です。

なぜ、カエサルの進攻を許したのでしょうか?

ケルト人は、森林崇拝で「ドルイド」という僧が
神と人間の媒介をし、そのお告げによって、
すべてが決定されていました。
ロジック(論理)を重んじるフランス人の祖が
自然信仰とは…驚きですねっ
大きな石造建築を作り、そこで国家形成がなされていた
ローマと違い、国家という概念を持っていなかったことが
カエサル進攻を許す原因の1つでした。
各ドルイド中心の集落レベルで、全くまとまりが
なかったんですね。

カエサルの著書「ガリア戦記」には、こう記してあります
「ケルト人は、神々を愛し、卑しいことをせず、大胆である」

どのようにして、ケルト人たちは、ローマの進攻を受け、
どのように変わっていくのでしょうか…?

それは、また次回お話しましょう

【これ、読んでみたら?】
◆19世紀ロマン主義 シャトーブリアン 「ルネ」◆

喫茶店の名のような彼は、ブルターニュ生まれ。
海・自然を愛し、資本主義に絶望し、
メランコリックな文学で名が高い作家です。

◆「ルネ」のあらすじ◆
生まれながらに母を失い、姉メアリーだけ
を頼りに生き、過剰な情熱に悩まされ、幸福を求めて
さすらう…。姉が修道院に入った時に、姉を女として
愛していた自分に気づき、暗い宿命に絶望し、
アメリカにわたる…おしまい。

(2009年10月8日に配信したCuiCuiのメールマガジンで配信したものです)

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by cuicuifrancais | 2010-01-13 11:57 | フランスの歴史